tabibito9tabitoのブログ

旅人のタビトによるエッセイ

ハロウィンのお祭り騒ぎ


日本がハロウィン気に入ったのって、
  運命的と言うか、
至極当たり前なんだよね。


仮装も、
集まって踊ったり、
飲み食いしたりも、
        元々の日本の風土に合ってる。

しかも、
 年がら年中じゃない事が、
 特別の日だけなのが、
           ハマったんだろうね。


文化人類学的にはピッタリ。


季節毎の祭りや飾りも好きだし。


アメリカスタイルの
     単なるお祭りパーティーでも、
ヨーロッパスタイルの
     ケルトの秘密の祭りとしても、

日本には良かったんだろう。


『魂取られないように化けろ』とか、
『魂を慰めよ』とか。

あの世とこの世の境界線がボヤケルとか、
心象にぴったりくる。

ケはドンチャンやって追い払う、
けど敬いつつみたいなところも。


『公にバカなコトしても良い日』ってのも。

真心の伝え方


    寺で大きな柏手が聞こえた。


反射的にそちらを見ると、
年配の夫婦と思われる二人連れだった。


傍に居合わせた人が連れに
  「あら、嫌だわ、神社と間違ってる」
             と言うのが聞こえる。


すると
別の、少し離れた年配のご婦人が連れに言った。

   「神社の方かしら、ね」

  隣に話し掛けるには
          少し大きな声で。

    目が合った私に会釈をする。


『柏手の御夫婦』は
   身なりもキチンとして、
   とても美しい柏手を打ち、
   とても美しいお辞儀をした。
   二人でいかにも慣れた様子で、
   それでも
   とても心のこもった美しい所作で。


私にも
  あの夫婦は単に間違っただけの様には
                思えなかった。


自分たちの信ずる
    正しい方法で
    真心を込めて
       お寺を参っただけのように思えた。


そしてそれでよい。
間違ってなどいないように思えた。


やり慣れない見様見真似の所作よりも、
自分たちなりの思いを込めた
素晴らしいお参りの仕方に思えた。


私も御夫人に会釈を返し、
なんとなく
『同じ思いの通じ合った事』に
       ほっとするような、
        救われたような気持ちになった。

知らぬ間に眠れやしないかと


    どうしても苦しい日がある。


胸の中がざわざして、
息を吸い込むと
悪い物ばかりが膨らむような。

いったい
どれが苦しいのか、

いったい
いつが苦しいのか。


分からないままに

ただ

耐えるしか無く、



そうっと気配を消しているしか
やり過ごし様のないような。


あの時
あれを
ああやっておけば…
          と


少しでも焦点が当たるのを
      何とか避けながら、
         静かに固まっているしかない。


意味も無く外の気配に集中して
          何か通りでもしないかと。



      そうやっているうちに

         知らぬ間に


       眠れやしないかと。

コンビニでチョイ呑み


「コンビニでチョイ呑みなんて、さみしい」


って思う人もあるみたいだけど、


なんだか素敵なことのように思える。


そら、
真っすぐ帰れない
事情の有る人だとかもあるだろう。


だけど、

最寄りの駅まで辿り着いて、
後はぶらぶら歩くだけ。
もうここまで来れば帰ったも同然。
庭みたいなもんだ。


なら、
その前にちょっと一杯引っ掛けて、
リラックスして
散歩でもしてるつもりで歩こうか。


    そんな気持ちが解ってしまう。


スイッチを
    切り替えるみたいに、

少し
  心を
    解き放って、


そうやって
いつもの道が
     ちょっと違って見えてくる。



    心のつかえもここに置いて帰ろう。



   そんな生き方も、
           素敵に思える。

雨から逃げて


雨の続く日には
  レインコートを着て、
      電車にでも乗りたい。




いつもの路線、
いつもの時間でも、
       きっと違って見えるだろうけど、


それでも
できれば、
    まだ行った事の無い方角へ向かう、
         それも混雑しない時間が良い。




いったいこの人達は
         何処へ
         何しに行くのだろう、
         何故この時間なのか、




そうやって思いを巡らせ、
        観察し、





それを悟られないように
      車窓からの景色に
        心囚われているかのように
                  演技して。





        そのうち
      それにも飽きたら、





鞄から
       文庫本
             でも取り出して




   読んでるフリでもすればいいし、



        そのうち



   本に引き込まれてしまってもいい。






終点にでも着いたなら、
 その本を慌てて脇に挟むでもして、
 忘れ物をきょろきょろ確かめて、
 左手に傘、
 右手に鞄を引っ掴み、

ホームに降りたら
 帽子を深く被りなおして
   誰かに見られた気恥ずかしさや
   見知らぬ者独特の空気でも隠すように、




  人目を避けて
        次ぎに乗る電車でも考えて。



そうやって
     逃亡者かなにかのように
             雨から逃げてみたい。

旅のお伴は人それぞれ

通勤通学の短い時間でも、


『心地良い電車の揺れで読む小説は最高』

という人も有れば、

『まるで映画かMVの
主人公になったつもりで
車窓を眺めながらの音楽に限る』

という人もいる。


『考え事に最適』
       とかもあるだろう。



どれにも共通するように思えるのは、


その時間の長短に関わらずそれが

     日常に紛れ込んだ『旅』だ

               ということ。



なにかしらの

     特殊な時・空間なのだ。


日常に紛れ込んだ
 ふとした時空の歪みから
  パラレルワールドに送り込まれてしまうような


小説や
映画の
    題材はよく有るけれど、


そんな不思議体験が
        自分の身に起こるとしたら、



それは
    きっと


        電車じゃないか


                と思う。


こうして
   『私の旅のお伴』は
           私の頭いっぱいに広がる。

平等や自由(とある駅で)

田舎の町に行くと、小さな駅に出会う。
通勤通学には絶対必要だけれど、
観光客や通りがかりの人は大して来ないような駅。
単線だったり、
さほどたくさんの発着がないのかもしれない。

ホームにエレベーターは無い。

改札は一つ側だけで、
あちらとこちらのホームを繋ぐ
高架が架かっている。

暗くなってから駅に着くと、
高齢で車椅子に乗った男性と
それに掴まってなんとか歩いている女性、
その二人の息子らしき人。

その三人が階段に向かっていた。

改札へは
 階段を使い
  線路を渡らなければならない。

ホームの端に直接道路へ出る扉があった。

『利用者はインターホンを押してください』
とある。


それを見つけて三人に

「アレを利用されないのですか?」
と尋ねると、


「アレ、鍵が掛かっているんです。


   夜間は無人になるので、
   呼び出すと
   係員が次の電車に乗って
   鍵を開けにやってくるんです。

   来て貰うのも、
    待つのも大変なので」と。


信じられなかった。


二人は
  不自由な身体をおして
     両手で手すりにしがみついて
数段上がると
     息をつき、

男性は
  畳んだ車椅子と
     大きなリュックを担いで
              上がって行く。

私には、
 その車椅子も
 大きなリュックも
      代わりに持つような強さも無かった。

ただ、
  三人の少し後ろで
          付いて歩くことしか。



三人が
すぐに気付いて

「どうぞ行ってください。
慣れてますので」
と言ってくれる。

きっと
最後まで付いて歩かれたのでは
三人は
しなくてよかった気疲れをするだけだろう。

実際、
彼等だけのルールに従って進んで行くように
                  見えた。



きっと
彼等には
    それが日常なのだろう。



ただ
  「お先です。
      お休みなさい」
          と言うのがやっとだった。



何百人が
 鍵の無いドアを開けて
 無賃乗車をしたとしても、



あの三人が
     自由に電車を使えるのなら、




『アノ』ドアは




  鍵を掛けなければいけなかったのだろうか。




咽の奥に何だか解らぬ痛みの塊を
            ぐっと飲み込んで、


     駅を出るより無かった。